価値観の固定化は、教義への執着という形で表れます。自分のアイデンティティを守らなければならない防衛機制です。怯えているのです。
自分を守るために動員されるのが教義です。自分は教義を知り、教義を身につけていることについては他の人よりも上だとどこかで思っています。自分は信仰がわかっているという言い方もします。
宗教二世、教会二世が、自分は幼い頃から宗教行為に身を当てはめてきたのでアドバンテージがあると主張するケースもあります。実はそのようなやり方は、周囲から見れば自分軸がないと取られ、本当の意味で相手にされません。本人はそのことに気づいていません。
教義に執着すると、冷酷、あるいは残忍になります。自分の教義を守ろうとする場面でしばしば見られる現象です。
人よりもカミ
人よりも教義
人よりも組織
あわれみよりも組織維持
キリスト教の場合、「カミ第一」という言い方は賞賛されます。しかし、カミが第一という命題は誤解されています。キリスト教のカミは、人間を造り、人間を愛し、人間を徹底して大切にし、人間に共感し、人間を守ろうとされるカミです。ですから、本当はこうです。
人間を大切にすることこそカミを第一にすることになる
宗教を行う者は子どもを大切に思っているでしょうか。子どもを優先させることができるでしょうか。
宗教は教義を受け入れることをよしとするため、意識しないと思考停止になります。教義は正しいものとして受け入れることが求められます。価値観は固定化します。現実を見て柔軟に思考することができなくなります。
教義は絶対的なものなので、一般の人たちの考え方は一段下に位置づけられるか、間違ったものとして排除されます。それでも、考えなければならない問題が次から次へと出てくるのが現実です。そこで動員されるのが神学や教義です。あらゆる現象は神学に照らして判断されます。
思考が画一化します。「一プラス一は二ですよね」という問いに対して、「一プラス一は三の可能性があります。教義ではそのようになります」といったかみ合わない議論になります。
ここで見落としていることがあります。教義や神学は絶対的なものではないということです。神学だけをたよりに現実問題の是非を判断すると、間違った判断に陥ることになります。それにもかかわらず、教義や神学は絶対的だと思っているので、考えを修正することはありません。考えを修正することは教義に逆らうことだからです。
続く


コメント